第9回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・最優秀賞受賞作品


 『 きみと私の傷の経過』
        


                                              山口 ぴょん子

 死にたくて、でも死ぬ勇気もなくて、笑うこともとっくに忘れちゃって固く心を閉ざしながらなんとか命を保っている17歳のきみ。はじめまして、私は32歳のきみだよ。いまは2021年。時間の流れは一方向だから、手紙を書いたところでたぶんきみには届かない。それでも時空を超えて届く想いってのがあるかもしれない。いやあるはずだ。きみが今まさに、大事にとっておいたお年玉を握りしめて大量の睡眠薬を買いに行く計画を立てているところなら、ちょっと聞いてほしい話がある。

 私は5年前に結婚して、今年可愛い赤ちゃんが産まれたよ。仕事は育休中で、最近は毎日赤ちゃんとお散歩したり、遊んだり、料理を作ったりしてそれはそれは幸せに暮らしている。勤務先はなんと外資系コンサルティングファーム!かっこいいだろう!お金は、旦那さんとの共働きだし、まあまあある。 
 でもね、これで終わる気はなくて、最近できた新しい夢に向かっていま通信制の大学に通って勉強しているところなんだ。これからは公認心理師になって、スクールカウンセラーをやる。いいお給料をもらって、何十億という予算のプロジェクトでマネージャーをやるより、きみみたいに傷つき居場所をなくしている中高生をひとりでも助けたいの。それが私にとっての幸せで、今後のライフワークにしていきたいの。私がきみと、きみの傷を生き抜いて、そう思った。

 なにしろ、きみがいま負っているその傷、きみが予想しているよりずっと長い間治らなかったんだから。治ったのは今年の8月のこと。15年間。笑っちゃうでしょ。時間が傷を癒すと思っていた。自分で心理学の本を読んで心というものを理解し自分で傷を治そうともした。でもいまきみの周りで集団を作ってきみに背中を向けているその子たち、きみだけが輪の外にいる寂しい風景、そのとき感じたきみの冷たくなった胸や恐怖心、15年間そっくりと夢に出続けていたよ。ああ、書いててつらくなってきた。きみの悲しみとも羞恥心ともつかない無表情や、拭いても拭いても湧き出てくる手汗が目に浮かぶ。

 「そんなところにいなくてもいい。うちへおいで。あったかいご飯を食べよう。」これはね、今年8月の公認心理師の先生との面談の中で、いまの大人の私がきみに言った言葉。そうなんだよ、ついに勇気を出して心理カウンセリングに行ってみたんだ。いまのきみのことも全部話した。そしてこの面談できみと私の長くつらい傷はきれいに癒えたんだ。魔法みたい。でも本当の話。先生は私をうまく導いて、傷つき立ち尽くすきみに言ってあげたいこと、してあげたいことを私の口から引き出してくれた。私は、きみを今の私の家に連れて帰りグラタンを作ってあげたい、と言った。優しい旦那さんと可愛い赤ちゃんのいる、安心できる家だよ。きみははじめ緊張し、熱々のグラタンを口に入れて「熱っ」って言う。それで顔がほころんで打ち解けるんだ。

 面談中、私は「いじめ」という言葉できみの状況を説明しなかった。大人になっても、自分がいじめられていたと認めたくなかった。代わりに、事実を淡々と話した。発端は中学二年の時で、声の大きい男子の一部が「ヒゲ」というあだ名をきみに与えたこと。口の周りの産毛が濃いからそんな名前で呼ばれてしまった。そしてきみが何より受け入れられなかったのは、きみを愛しているはずのきみのお母さんが「口の産毛は剃らないものだ。剃るほうがおかしい」と言っていたこと。きみはお母さんの言うとおりにし、女の子としての自尊心がズタズタになるラベルをべったり貼り付けられてしまった。

 男子だけでなく、女子たちもきみを悪く言いたくなるときはそのあだ名を陰で使っていたことをきみは知っていた。だって、どんなに教室が騒がしくても、その単語だけはあらゆる音声のあいだを縫って耳に飛び込んでくるんだもの。みんなきみが気づいていないかのように弾んだ声で「ヒゲ」の名前を使っていたんだもの。なんだか一度そうなっちゃうと、いくら成績が良くてもおしゃれをして可愛くしても、すべてが無駄で、友達も誰もきみを大事に扱わず心の中であざけっているように思っていたね。

 中高一貫だったから高校生になってもあだ名はなくならず、あれは高校一年の終わりごろだったか、ついに我慢できなくなったきみはお母さんに「保護者会に来るときはお母さんも口のまわりの産毛を剃ってきてほしい」とお願いし、あだ名の件もすべて話したね。お母さんは、「普通は剃らないものだしおかしいが、そういう状況なら自分も剃る」と言ってくれたものの「お母さんのせいであなたがいじめられてごめんね」とは言ってくれなかった。これはショックだったね。クラクラしたね。

 お父さんは単身赴任で家にいなくて、学校のことを話せなかった。というよりお母さんに失望したあとで、お父さんまできみの気持ちをわかってくれなかったらそれはもう最後の砦が崩れたみたいになってしまうから、話したくなかったんだよね。学校の先生は、きみのあだ名のことやきみの元気がなくなっていくことに気づいているように見えた。でもそれを問題ととらえて具体的に何かしてくれることもなかったし、きみとしてもどんなふうに相談したらいいのかわからなかったよね。「わたし男子にヒゲってあだ名をつけられて、とっても嫌な思いをしているんです」なんて先生にも恥ずかしくて言えなかったんだよね。

 高校二年になるころには、幻聴が聞こえたほか、テレビのアナウンサーや町の通行人の顔まで自分を嫌っているように見えた。それでもきみは学校に通い続けた。一度行かなくなったらもう二度と行けなくなり、そこで人生が閉ざされちゃうような気がしたね。親は口癖のようにお金がないと言っていたし、もし不登校になったら学費だけかかって無駄だとなじられるんじゃないかって恐怖心もあった。当時の症状はいわゆるうつだろうけれど、お母さんは「朝起きられるし、学校も通えているんだからうつじゃない」と言っていたね。うつでも統合失調症でも呼び方は何でもいい、暗い気持ちばかりが頭をグルグルめぐり、生きたい気力が一切沸かず死ぬことばかり考えていた日々、きみだけの力でその心の不調を、傷を、治していくことが難しいなら、専門の機関に頼るべきだったと今の私は思う。お母さんはなぜ風邪をひいたら内科に連れて行くのに、心の件ではきみの不調を不調と認めなかったんだろう。それを認めたら、自分は娘を「普通でない子」に育てたダメな母親になってしまうと思ったのかな。

 お母さんとの問題は別の話だからおいとこうか。とにかく今では、あのとき早く心理療法にかからなかったことさえ受け入れ、その後の苦しい道のりを乗り越えてこその自分の人生だったと認められるようになったよ。傷つくことで他人の心の痛みに敏感になれたし、苦しみを乗り越えることでより強くなれた。新しい夢だって見つかった。私は今の生活、今の自分がすごく好きだよ。
 だから、きみは苦しいかもしれないけど、どうか生き続けてほしい。赤ちゃんという守るべき存在ができ、自分のことで悪い夢を見続け病んでいる場合ではなくなったときがきみと私の転機だったよ。
今日も明日もあさっても、時空を超えて私のグラタンがきみをあたためますように。

 私が「きみ」に宛てて書いたことは、全部本当のことです。私は14歳から高校卒業までつらく怯えながら学校生活を送りました。何をしていても、男子から大声であの忌々しいあだ名を叫ばれる瞬間を恐れていました。そしていくらあだ名で呼ばれても、気に留めていないようなふりをすることに徹していました。思春期の女の子にとって、自分が「ヒゲ」と呼ばれていると認めることは、芽生えかけている「女性」という性のきらめきをすべて否定され摘み取られるように思いました。女子の友達は中学生のころはいるにはいましたが、男子に面と向かって意見しかばってくれる子は一人もいませんでした。

  そしてこれは私の選択ではあるのですが、高校一年の終わりごろ、もう消えたい、友達もひとりもいらないと考えるようになり、わざと友達を遠ざけました。世界でたったひとりになって死のうとしていたんです。だけど誰かとつながりたい、分かり合いたい欲求は完全には消えてなくならず、学校で一人でいることがいつもつらくてしかたありませんでした。そのため中途半端に友達の輪に入ろうとし、そのたびにいろんな方法で外される。「誰とも話さず孤高を貫く」というのがやりたかったのに、その理想をやり通す強さもなかったんです。登校時の下駄箱や机も、今日は何もないといいなと願うばかりでした。嫌がらせのすべてを言葉にする勇気が今でもまだありません。

 大学に入って環境は変わりましたが、笑い方も人との関わり方も思い出せないままで、心の不調は続いていました。ぐるぐると中高時代のつらかったことが頭の中で再生され、よく涙が止まらなくなりました。社会人になるころには友達も彼氏もでき、だいぶ調子はよくなってきましたが、それでも「人から嫌われるのが怖い」「自分に自信が持てない」「ルックスを過剰に気にしてしまう」などネガティブな認知のパターンがこびりついてしまい、なんとなくいろんなことがうまくいかなくなっていました。

 そんな私が今日、傷なんてなかったみたいに笑い、幸せでいるのは、公認心理師の先生との面談のおかげです。先生は家族友人が相談に乗るのとは次元の違うレベルで上手に私の話を聞いてくれ、傷を癒してくれました。またそもそもカウンセリングに赴くきっかけとなったのは、新しく誕生した子供の存在でした。この子を守るためには、自分自身がしっかりしなくちゃって思えたからです。さらに嬉しいことに、この子は大学時代からずっと私を支え側にいてくれた最愛の夫との子です。

 いじめはどうすればなくなるのか、いじめられている子をどうやって助けてあげられるのか、そもそもいじめって何なのか。公認心理師を目指して勉強する中で集団心理やこころの仕組みについての知識は増えてきたものの、わからないことばかりです。ただぼんやりと思うのは「いじめ」に認定されれば悪でそうなるまではすべてグレーで具体的な改善策がとられないことが多いのではないか、ということです。いじめがあれば、学校が責任を問われる。いじめられていることを認めると、本人の自尊心が傷つくことがある。いじめがいじめと扱われたとたん、親も友人も「渦中の関係者」になる。そして誰も渦中の関係者になりたくない。それは世間体のため、忙しい自分の生活を守るため。

 いじめの定義なんてなんでもいい。心に傷を負って痛い思いをしているなら、それは専門家を訪れケアする必要があり、ケアをすれば元気になることができる。まずはそういうシンプルな話でいいじゃないか、と私は思います。

 最後に、この文章を読んでいるかもしれない、今まさにつらく寂しい学校生活を送っている子に向けて。

 死んじゃだめだ。全力疾走しなくていい、笑えなくてもいい。土砂降りで世界が真っ暗に見えても、きみの人生の主役はきみなんだよ。生きていさえすれば、まだきみも気づかないきみの可能性が花開く時がきっとくる。体が風邪をひくように、こころだって風邪をひく。そしてそれはきみのせいじゃない。必ず大丈夫だから、元通り飛べる日まで安静にして羽を休めよう。

 また、いじめと向き合う学校関係者や保護者の方、周りのいじめを傍観している子に向けて。
 
 いじめ被害者第一でなりふり構わず救ってあげてください、とは言えないですが、少なくとも私の体験では、十代のころの心の傷はその後長期にわたり後を引いたし、十代の子が一人で抱えるには痛すぎました。心の傷が目に見えたらどんなでしょうか。傷から血がダクダクでて、あざまみれで赤黒くはれ上がっているかもしれません。広範囲にわたりささくれ立って擦り剥けたあとがあるかもしれません。その子が血を流して泣いている様子をありありとイメージしてみることが、癒しになることもあると思います。私は、周りの大人や友人にそうしてほしかったです。

そ してその子に「痛かったね」と言ってあげてください。みんなの心がちょっとずつ動き出すと思います。